木曽左衛門のつれづれ草

黒猫と海女


<黒猫>
黒猫
黒猫とはペットのことや宅急便の話ではない。褌のことである。
拙者が過ごした故郷、能登半島の先の方にあった村、当時は鳳至郡(ふげしぐん)~~村と呼ばれていた頃の、子供の頃の話をしようと思う。
その頃、今の様に作られた遊びの施設や公園などもなく、野山を駆けずり回る遊びが主で、夏の暑い日などでは、よく川で岩場が在るような所で水泳を楽しんだものだ。
また、堤(つつみ)と呼んでいた、田んぼ用の用水池が山間の窪んだ所にミニダムのように造られている所が、恰好の水泳場所でもあった。
最初から水泳目的ならば、水着を用意して行ったかも知れませんが、野山に遊んでいるうちに気が向けば水泳となったので、当時は着物を脱いでスッポンポンのまま泳いだものだ。
女の子などは水着の用意が出来ないがスッポンポンのままでは恥ずかしいので、パンツ(ショーツ)のまま泳いでいた。 パンツの中に水が入り、ゴム紐がきつくないためか、ずれて半だしのケツの子もいて、目の保養には悪くない光景だった。

しかし、学校の行事で皆で海水浴に行くような場合は、スッポンポンというわけにはいかず、水着を用意した。
水着とは言っても、今のような水泳パンツがあった訳でもなく、用意したのは男児の場合は必ず褌である。褌にも色々の種類があるが、「六尺」などは大人用で「越中」はあまり聞かず、当時の男児は全て「黒猫」と呼ばれいた褌を使用した。
挿絵の写真にあるようなもので、前の方が三角状になっており、お尻の方は幅の狭い帯状になっていて端は紐を通すため折り返した穴が設けられており、紐をそこに通して腰に結び付けた。
色は決まって黒で、他の色のものは見たこともなかった。もっとも、「黒猫」とは褌を吊るして乾かすとき姿が黒猫のように見えることから、このように命名されたと聞いているが。

山中毅
水泳といえば、当時スイミングプールなどは学校に無く、海の岩場で遊ぶようにして泳いでいましたが、そこは海女の血筋の子供も多く、山中毅という自由形の世界的競泳選手も拠出しました。
彼は輪島高校在学中の1956年にメルボルンオリンピックをはじめ、ローマオリンピック、東京オリンピックと3度のオリンピック出て、4個の銀メダルを含めて、出場すべてで入賞しています。
拙者も彼の凱旋で帰郷の折には、町で行われた提灯行列によく行ったものである。
その前でもその後でも、オリンピック出場の輪島出身の選手が続出し、水泳日本の一翼をこの小さな町が担っておりました。
山中選手の母親も海女で、出産の数日前まで海に潜っていた。そのため「山中は生まれる前から泳いでいた」との逸話が残っています。

余談ではあるが、「黒猫」は昔このように使われていたが、何を隠そう専門店では今でも売られており、好き者は日常の下着として愛用しているそうだ。色もいろいろ、柄物も有るし、女性でも愛好者がいると聞き及んでいる。
もっとも、女性用には殿方にもっと喜ばれる「T-Back」(Japanese English だそうだが) なるものが現在あるので、そちらを御愛用というオナゴも多かろう。

褌の話題になったので、さらに一つ紹介しておこう。
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土砂を運ぶ、網状に編んだ運搬用具に「畚(もっこ)」と呼ばれるものが有りますが、それに似た形状から「もっこ褌」と云うものも有ります。簡単に説明すると、「黒猫」は前だけが三角だが、 「もっこ」は後も三角状になっていてお尻の割れ目を少し隠せるようになった、紐付きの褌です。
こちらは水泳用に使うというのはあまり聞いたことが有りませんが、日常の下着として男女とも今でも愛好者がいると聞き及んでいます。
もっとも、こちらも女性用には形状がやや似ていて、後の三角形も大小色々のバリエーションが有り、紐は腰回り全体ではなく両腰にだけ有るものなどかわいいパンティ(正式の呼び名があるか知らないが)も有り、又蝶結びとは男性にも優しく(?)、実用性だけでなく殿方の目の保養にも宜しいようで。

<海女>
拙者が子供の頃過ごした故郷、能登半島の先の輪島で有名なものに海女がある。

海女
何を隠そう、当時の海女は海に潜るとき身に着けるものいえば、我らと同じ「黒猫」だけであった。女性ながらにもオッパイもむき出しである。
正確には、「サイジ」と呼ばれていて、海女たちが作業上便利なように輪島の海女が考案し、自分たちが手作りした独特の褌と思われ、「越中」の前垂れにあたる部分は前に垂らさず腰紐に巻き込んでいるので、 見た目は「黒猫」です。股下からお尻部分少し上がった所で三角状布は終り、後は数十本の丈夫な細い紐で繋がれている「T-Back」風です。但し、色は黒色より、女性用ですから色物・柄物が主でした。
サイジの紐は縄状になっていて、重い鮑取り道具を手で持っていては潜る時手コキ泳ぎが出来ないので、「貝金」を腰に差せるよう太く丈夫なもので、両手が使えるようにしていた。


海女
又、挿絵の写真のように、腰に差した「貝金」が大きく重しを兼ねていたが、体が浮かないよう、又早く潜水出来るよう鉛の重し「はちこ」をつけた縄をさらに腰に巻き付けていることもあります。
水中メガネは深く潜水した時、水圧で顔面に食い込まないよう水圧を和らげるゴムの風船が付いたものを使用しておりました。

肌は太陽でこんがりと褐色、つるつるに焼け上がり、きつい労働で引き締まった筋肉質の、ヌード然とした体を見て、戦後ここに訪れた外国のカメラマンの中には、「泳ぐミロのヴィーナス」と言った者もいたそうだ。

ではここで、少し海女にまつわる話を紹介しておきましょう。
輪島の海士(あま)町を中心に、現在でも多数の海女が暮らしている。韓国の済州島など各地にもいるが、輪島の海女(当地では「あま」は漢字で「海士」と書くが、一般的な表記「海女」とした)は一説によると世界一だそうだ。
当時から海士町では女の子が誕生すると、盛大な誕生祝いを行い、さながらお祭り騒ぎになりますが、男の子の誕生の時はひっそりとして親戚・縁者にも連絡せず祝い事などはしなかったそうです。
これには理由があります。娘1人で5人家族ぐらいは楽に養うことが出来、娘3人では蔵が建つなど言われ、海女の稼ぎが生活を支える女系社会だったからです。

<海士町のいわれ>
 河原田川と鳳至川が合流して日本海出る左岸に輪島港を囲むように岬が突き出しているが、その天然の良港である輪島港の背後に海士(あま)町がある。
 その名の通り漁と関係が深い。住民は近世に西国、現在の福岡県鐘ヶ崎から移住してきたと言われる。
 毎年その季節になると能登へ鮑漁に来て、秋ごろに帰国するという生活をしているうちに鵜入(うにゅう)、さらに光浦に住み着くようになった。
 その後、人数が増えて住みにくくなったため、鳳至町と輪島崎の間の山畑の土地の拝領を願い出て許された。
 本格的に定住するようになったのは、1600年代初め(寛永期)からと言われる。
 加賀藩に名物の鮑を献上し、殿さまから喜ばれたのが、土地の拝領が許るされた理由とも言われています。
 北九州の海女たちは、日本海沿岸を上っていき、ある者は能登半島を経由して下北半島を回り、宮城県の牡鹿半島まで移動する。
 また、北九州のからの逆コースで鹿児島を通り、四国の南岸から紀伊半島に渡り、鳥羽から伊豆、房総半島まで移動したのである。
 このように、ルーツは西国にあり、元々能登にいた人達と風俗・習慣・言葉などは大きく異なる部族でした。
 取れた魚などを元からの輪島の住民と商売上取引する必要があったので、海女は輪島弁も理解し通話も自由でした。
 しかし、海女同士での会話は、済州島あたりの朝鮮語の方言や対馬・北九州あたりの方言とがミックスして出来たと思われる言葉なのか
 一緒に住む輪島の住民でさえチンプン・カンプンでした。

海女たちが活躍するのは輪島近海は勿論ですが、本当の活躍の場は輪島の沖の日本海を北上した50Km圏の舳倉島(へぐらじま)、七ツ島という所でした。
周囲約5km足らずの舳倉島は今でこそ少しばかりの家族が移住しておりますが、それでも厳寒期の冬場などは生活も厳しく大半の人は本土へ帰還する生活をしております。
七ツ島は舳倉島との中間あたりに位置していて、名の通り七ツの島から成り立っている全くの無人島だが、舳倉・七ツ島ともに鮑・さざえ・ワカメ(カジメ)、テングサなどをはじめの海産物、 美味しい魚などの宝庫でありました。
吉幾三の歌ではないが、”テレビも無ェ ラジオも無ェ・・・” ではないが、木もよう生えない、住むには適さない、海鳥・渡り鳥以外は住まない岩だらけの無人島だが、 特に七ツ島は、海女にとってはここがパラダイスだというのである。

<パラダイスの島>
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海産物の宝庫であるこの島へ鮑漁に行くのにも、手漕ぎの小舟での移動は往復だけで一日が潰れてしまい、漁など不可能でした。今でこそ、高速船などが有りますが、当時はそんなものも有りません。
そこで海女たちは、島に簡素な「海女小屋」を設け、暫くの間はそこに滞在して漁をし、帰るという生活をしておりました。この島は魚の宝庫でもあったので、当然海女以外の「海の若衆」も漁に来ており、 やはり同じ理由で、海女たちとは別の所で「海夫小屋」を簡易宿舎としてして漁をしておりました。鮮魚は長時間持たないので、行ったり来たりの生活です。
元々、無人島の島ゆえ、娯楽の ”テレビも無ェ・・・” で、若衆達は島での夜長を、取り立ての魚を刺身に酒など酌み交わし、疲れを癒すランプ小屋の生活だったようです。
幸い島には一般人はおろか子供・年寄り、親たちも居なく、若者は自由で、草木の生えない所だったのに男女の恋の花だけは咲き乱れたようだ。

海女の社会では、伝統的に女系家族で女性主導で物事が進んでいたので、男女の恋愛でも女性主導でした。
海女小屋に泊まる若き海女達は、自分が目を付けた男を夜男宿舎からこっそり連れ出し、岩陰や海岸辺りで、あるいは砂地の無い所では海藻のカジメを敷いて、あるいは小舟の中で抱き合い、 満天の星空のもとで一夜を過ごし、共寝した男と明別(あけわかれ)することは不思議なことではなかったそうだ。
なかには、連れ出された男は羨ましいがられるので、仲間に気を遣う男を察してか、仲間2・3人とも連れ出し「今日はあんたらの好きなようにしてえぇさけぇ、任せるがいね」などと3P・4Pなるものも楽しむモサ姉さんもいたとか。
<注:実際交わす言葉は輪島弁ではなく、海女同士で通ずる言葉でしたが、浅学の身ゆえ正確には表現出来ていません。だちゃかんな。>

当時のこの地の一般女子は、親などが世話したお見合いなどで相手の顔もよく見ないうちに結婚が決まり、初夜で初めて相手を知るなどと云うことが普通だった時代である。
しかし、海女は選り取り見取りでいい男を自分で ”試して”(?)、自分で伴侶を決めていたのである。 一般女子では、相手がこんな人だったとはと後ほど後悔(?)することがあっても、海女らには起こりえないことであった。

ここで、「黒猫と海女」の話は終わりに致したく存じますが、最後に、海女をモチーフにした江戸時代の大浮世絵師、 葛飾北斎の作品「蛸と海女」なる春画が
大英博物館に展示されておりますが、この「蛸」がお召し上がりになっている「鮑」と「おさしみ」にちなんで、
拙者の川柳駄作2句ほど紹介してシメたく存じ候。 :大英博物館が誇る葛飾北斎のコレクション故載せましたが、春画等に好みでない方はパスされたし。
  
”夜の宴 おさしみの後 鮑食べ”

宴で能登の美味しいおさしみ、その後鮑も食べた(?)
  
”横取りの 黒猫外し 鮑食べ”

美味しい鮑を猫に横取りされないよう追っ払て(?)、いや黒猫外して食べた(?)

:”おさしみの前に土手をば一寸撫で” と云う江戸川柳がありますが、何を隠そう「おさしみ」とは口付け、「土手」は恥丘のこと、「鮑」はサイジ下に隠れているもの。

追記
我らが誇る輪島の海女たちの名誉のためにも、少し付け加えさせて頂きますが、七ツ島での男女間の夜の睦みなどの話は、全くの作り話でもありませんが、 ”見てきたような嘘を言い” 類の、”当方が創ったフィクション” と云うことにして結構ですので、お許し下され。



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