そして、その後、昭和十六年の十二月八日の未明のことである。
北アメリカの西方海上にあるハワイ諸島の一つであるオワフ島の港内にいたアメリカ海軍の「アリゾナ、ネバタ、カルフォルニャ」など八艘の軍艦に、日本空軍が空から爆弾を投下した。
そして、これがきっかけとなって、日米戦争は次々とエスカレートし、何時終るか判らない泥沼戦争になった。
ところが、どうしたことか、三平にはなかなか召集令状が来なかった。 それは、三平が胸を病んで相当長く金沢大学病院などに入院していたためである。
しかし、その後病気の方も相当良くなったので、金沢の第九師団の歩兵連隊に出向いて「早く召集して欲しい」と申し出た。
ところが、連隊の担当係官は「将校の召集のことについては、第九師団司令部にいる石田少佐の所に行ってくれ」と言われたので、そこに出向いた。そのとき、石田少佐も私が胸を病んで相当長く入院していたことを知っていた。 そして「胸の方はどうかね」と尋ねたので、次のように答えた。
「完全とは言えないが、まあまあこれだけ良くなった。私も日本に生を受けた以上、どうせ死ぬならお国のために生命を捧げたい」と言った。
石田少佐「それでは、数日中に召集令状を送る」と言い、その二日後に令状が届いた。
そして、入隊したのは、金沢師団の歩兵連隊内に編成された、戦時名「桂一三、五〇〇部隊」というところであり、兵員数は三〇〇名で、その出身地は石川、富山及び長野県の応召兵であり、三平はその部隊の隊長に任命された。
その後、十月二十九日のことである。 連隊本部から「すぐ、こちらに来てほしい」と電話があったので出向いたところ、「三平の部隊は直ちに出動準備をし、明日の午前一時に屯営を出発し、金沢駅に待機している汽車に乗車すべし」と命じられた。
かねて、覚悟はしていたものの、まさか、こんな緊急な出動になるとは予想もしていなかった。
命令を受けてから出発まで、僅か十三時間である。 その間に出動に必要な物品の受領、戦時服装の着替え、不用品の返納、部隊の編成、関係事項の示達、残務整理などで、それこそ食事をする暇もないほど忙しかった。
私が召集令状を受けて家を発つときに、女房に言った。
「これが生別死別になるだろう。 今度の召集により、恐らく再び顔を合わせることはないだろう」と。
そして、日本に生を受けた以上、祖国の危急に生命を捧げるのは当然であり、日本男子の本懐でもあるとも覚悟していた。
そこで、私が下宿していた石野さんのところに電話して「今夜、屯営を出発して戦地の方に出かけることを、輪島の家にいる女房に通知してほしい」と頼んだ。
この電話を受けた女房と両親は金沢に駆けつけてきた。 もう、薄暗くなっていた頃である。 女房の背中には、私の次男である浩が眠っていた。ともあれ、今更何も言うこともないので、すぐ別れた。 そして、連隊長に対し「これから、出征致します。 連隊長に対し敬礼」と軍刀を一閃し、屯営から粛々として徒歩で金沢駅の方へ向った。
午前一時といえば、みんな寝静まった深夜であり、屯営から野町広小路、犀川添いに下り、そこから金沢駅の方へ行った。
ところが、わが部隊の行くところはどこだろうか。 隊長の私さえ知らされていない。 しかし、十一月も終わりというのに、みんな夏服だったから、多分「南方だろう」と見当がつく。
金沢駅に着いたら、東本願寺の金沢別院に待機していた歩兵の大島隊も来た。 汽車が動き出す。
「郷土よ、さようなら。 森の都金沢よ、さようなら」こうして、金沢を出発した汽車は臨時列車であったから、途中のあちこちに停車し、十一月一日に山口県の下関に行って下車し、船で関門海峡を通って門司港に着いた。
その後、十一月二十九日の午後三時頃である。 門司港でひっそりと出港した数艘の船がある。 それは出港といっても汽笛も鳴らさなかったし、埠頭で誰一人見送るものもいなかった。 港内があまり混雑しているので、一寸そのへんまで移動するというようなものであった。
船の大きさは、いずれも六、七千屯ぐらい。 なお、その船は長い航海のため、いかにも疲れ果てたというように、すっかり塗料のはげ落ちたものや、見るからに戦時急造船らしく、鉄板の溶接部分もそのままで、ペンキも塗っていない不格好な船であった。
三平の乗った船もそんな船であり、それは人を乗せるためにつくったものではなく、石油運搬船であった。 南方のインドネシヤへ石油を取りに行く。 その往路を利用して、兵員や物資を送ることにしたものだった。
船名は「延慶丸」。 なお、これは新造ほやほやのもので、今度が処女航海とのこと。 「処女」に乗る。 だが、どうも感じの良くない船であった。
これに乗船した兵員は一、五〇〇名であり、三平のような北陸地方の者や四国その他の応召兵であった。
ともあれ、船は「油運搬船」であったから、中央部の甲板の下を仕切って、三段の棚を造り、そこへ否応なしに兵員を詰め込んだ。
甲板から、そこに行くには狭い階段が一か所あるだけで、周囲は鉄板だから通風は全くなく、中は蒸風呂のように暑くて、汗がぽたぽた流れ落ちる。
しかも、収容人員に対して余りにも狭いので、横になって寝ることも出来ない。 致し方がなく、甲板上の飛行機の翼の下や積荷の間に携帯天幕を張って、そこへ移る「疎開者」や夜だけの「外泊組」も出てきた。
実はこの延慶丸は二週間ほど前に門司港を出発した。 しかし、そのときは航行して僅か十数時間のところで、機関に故障が生じて航行不能になり、南下の船団から脱落した。
故障の原因は、直径僅か五粍程の鉄棒が折れたためと判ったが、何ぼ戦時急造船でもお粗末過ぎる話である。 早速陸地から部分を取り寄せて応急修理し、二日後に門司港に戻った。 そして、瀬戸内海のある島影に、次の出港を待っていたのである。
延慶丸が門司港を出るとき。兵員は甲板上に出てうろうろすることは固く禁じられていた。 秘密保持のためである。
さて、今度は二度目の出港である。 「出戻り処女丸、今度は何とかうまくやってくれ」。
物陰から覗き見る祖国の山河。 散り残る紅葉に晩秋の薄陽が映えて、去りゆく者にとっては大変印象的であった。
門司港を出てしばらくすると、左側に八幡製鉄所の煙突から黒煙が空高く立ちのぼっているのが見える。
その頃の言葉に「鉄は国家なり」というのがあったが、戦う日本にとっては「鉄は最も大切なもの」。 戦い勝つ日まで、溶鉱炉の火よ、燃え続けてくれと心の中で祈った。
出港して、六、七時間経ったであろうか。 何処で待機していたのであろうか。 次々と船が集まってきた。 その数は十四艘であり、そこで船団を編成した。
三列縦隊で、各船の距離間隔は六〇〇米(夜間は四〇〇米)。 なお、その船団の前後左右には十艘ほどの駆逐艦と五艘の駆潜艇が護衛していた。
編成を終わった船団は航路を西方に向けてどんどん進む。 行くところはアジア大陸か。 「玄界灘」は浪の荒いところで有名だが、低気圧が近づいてきたのか、急に天候が悪くなって、冷たい風雨が叩きつけ、海も大荒れになってきた。 しかも、もう敵の潜水艦のことを考慮して、右へ左へとジクザク航行する。玄界灘。 それは島国である日本と大陸の間に海の要衝である。ふと、無名戦士の詠んだ和歌を思い出した。
古い時代のことはともかくとして、支邦事変から大東亜戦争にかけて幾百万の将兵が、この海を渡って大陸に出かけたことだろうか。
「ふたたびは越ゆと思わね玄海の
怒涛もものかわ銃据えて立つ」
この和歌を詠んだ出征兵士は、その後どうしているだろうか。 また、いまこの玄界灘を征く三平はいつの日にか、この海を越えて再び祖国に還ることが出来るだろうか。
大東亜戦争が勃発したのは、昭和十六年の十二月八日であり、当時アメリカ大陸の西方海上にあるハワイ郡島の一つであるオワフ島に停泊していたアメリカの軍艦に、空から爆弾を投下したことから始まった。
それから、満三年になるが、日本の敗色は日一日と深まっていた。 海の生命線としていた内南洋のサイパン島は攻略され、勢いに乗じたアメリカは一ヶ月程前にフィリピンのレーテ島に上陸し、さらにルソン島を北上してきて、最後的決戦段階になっていた。
比島戦はサイパン戦などと違って、何十万の兵力が激突するものであり、敵は九州の五島列島から朝鮮の済州島の南にかけて潜水艦の垣をつくり、また、台湾とフィリピンの間のバシー海峡にもその第二線を設けていた。
出航して三日目の夕刻である。 一路大陸に向かって西進していた船団は、その後進路を南東に転じたのか、遥か左の方に島が見えるようになった。 地図で見ると、どうも五島列島でも一番南にある福江島のようである。
当時は、この付近は「魔の五島列島」といわれていたところ。 だから、わが延慶丸でも甲板上には二米間隔に監視兵が並んで、夜昼となく海を見つめていた。
やがて、五島列島の島影もだんだん遠ざかって日も暮れた。 船団は勿論無灯火航行であるが、その怒涛の海には「夜光虫」がいて、大変明るく輝いていた。 三平はこんな夜光虫のいる海を見るのは初めてであり、物珍しそうに眺めた。
「夜光虫」とは、発光粒を持った海中のプランクトンであり、熊本県の八代湾や天草灘のそれは、古くから知られているが、こんなところで夜光虫の輝く海を見ようとは想像もしていなかった。
その晩、三平は午後九時から午前零時までの三時間、船舶司令室に勤務することになっていた。 延慶丸に乗船している各部隊の隊長が交替で勤務していたが、そこは船橋上でも一番高いところであり、船の前後左右が眼下に一望出来るところ。
船長はここにいて、前後左右の僚船を目で確認しながら、自船の航行について次々と指示する。 また、その指令を船底の操舵室に伝える者や、海図に現在地を記入する者、双眼鏡で海上の遠くの方まで監視している者もいた。
なお、三平の任務は兵員関係のものであり、敵潜の攻撃に対処するため、船長から伝えられる関係事項を船倉内にいる部隊の方へ通報するものである。
海上は連日の時化で大荒れであり、甲板上でもよろめくほどの船揺れでは、高い船橋上では、それこそ大変である。 三平はこうした船は大の苦手であったが、一五〇〇名の兵員の安否に係る職務とあっては、そんなことを言っておれない。 足をふんばり、鉄枠に掴まって頑張っていた。幸に勤務中は何事も起こらなかった。 後任者と交替して「やれやれ」と船橋を降りた。
眠りについて、さて何時間程経っただろうか。 突如「敵の潜水艦発見、緊急避難準備」の司令があって叩き起こされた。 午前二時頃である。敵の潜水艦を発見したのは、わが延慶丸の斜前方にいたブラジル丸(日本船)であるが、敵潜は事もあろうに、わが船団のど真中に浮上してきたというのである。
わが船団は出港以来、無線の使用は固く禁じられていたが、この緊急事態の発生には、止むを得ず無線で各船に伝達された。
なお、「非難準備」とは、船倉内にいる兵員が甲板上に出て、何時でも船から脱出できるよう待機することである。 兵員は押し合い、へしあい甲板上に出て、予め指定されている場所で待機した。
緊迫した一時間、二時間。 しかし、その後何事も起こらなかった。 そのうちに、「こんなに海が荒れていては、敵の潜水艦だって、どうにもならないだろう」という者や「何かを見誤ったのでは」という者もいた。
そして、しばらくして「非難準備」が解除になり、船倉内に戻った。 なお、三平は船倉内ではなく、船橋下の横手に丸太木で仮設された出っ張り櫓にいたので、そこへ戻った。
ところが、それから三十分程経った午前四時半頃である。 暗黒の夜空を引裂くような一大轟音がして、右の方四〇〇米ほどのところを航行していたハワイ丸(日本船)が爆発した。 それは、その頃東京都は両国で打ち上げられる花火を何十個も束にして、一度に打ち上げたようなすさましいものであった。
恐らくハワイ丸に魚雷が命中し、船倉内に積みこんでいた弾薬に引火したものであろう。 一大光芒を放って数回爆発し、またたく間に海の藻屑と消え去った。
なお、このハワイ丸に軍馬も乗せられていたのだろう。 馬が何頭も空高くはね飛ばされるのも見られた。さらに、わが延慶丸の前方にいた秋川丸もやられたのであろう。 火災が発生して、やがて火達磨になった。 これに乗船していたものは、恐らく全員海中に跳び込んだことだろう。
また、前記したブラジル丸(日本船)の後部からも爆煙の立ち昇るのが望見された。
僚船がこうして、次々とやられたとき、わが延慶丸はどうだったのか。 ハワイ丸がやられたとき、大きな音をたてて船がひっくりかえるよう大きく傾いて、急カーブした。 そのため甲板上にいた数名の兵が海中に投げ飛ばされたという。
あとで知ったことであるが、船橋上にいた海上監視員が三本の魚雷がわが延慶丸に向かって突進してくるのを発見し、船長が間一髪で大きくカーブさせたため、危く難を免れたということである。
こうした敵潜の襲来を知って、船団の各船は後部の甲板上に装備していた水中爆雷を次々と海中に投下した。 爆雷は一定の深さまで沈下すると爆発することになっているとのことで、海水は「ガーッ、ガーッ」と大きな音をたてて沸きかえり。それは何とも形容しがたいほど、すさましいものであった。
また、各船や護衛艦は「ボーッ、ボーッ」と汽笛を鳴らして右往左往し、船団はここでばらばらになった。 わが延慶丸は数艘の僚船とともに、全速で南下した。
そのときである。 三平の部隊の前田君が、「腕をやられた」と言って、戦友に抱きかかえられるようにして、私のところにやってきた。
ハワイ丸(日本船)が爆発したとき、沢山の鉄片が飛んできたが。たまたま、その一つが、甲板上にいた前田君の腕にあたったのである。
早速、船橋内にいた軍医のところに連れて行き、軍服の袖を切ったところ、左腕の肩先から十糎ほどのところをやられており、僅かの肉片でどうにか、ぶらさがっていた。
そこで、軍医は鋏、鋸、メスなどで腕を切り取り、これ以上出血しないよう動脈を‘結んで包帯でぐるぐる巻き、応急手術を終わった。
三平はこの手術に立ち会ったが、痛さで顔をゆがめている前田君を「頑張れ、頑張れ」と励ました。
なお、船内にはそんなものを収容するところもないので、船橋下の狭い廊下の片隅に毛布を敷いて寝かせた。
そして、三平は前田君の側に座って言った。 「手術はとどこうりなく終わった。 大切な腕だが、頭や胸などではなかったことは、不幸中の幸いだ。 このうえは、一日も早く治ってほしい。 こんな和歌があるよ。
「片足と片手は大君に捧げしも
なお半分は我に残れり」
というのだ。 大切な腕だが、大君とお国のために捧げたのだ。 これが戦争というものだ」と慰め励ました。
その後、一路南下した延慶丸など数艘は、鹿児島県は奄美大島の古仁屋湾に入港した。
古仁屋は海峡的な細長いところであり、山が海にせまっていて、水深もあり、大変良いところであった。 船は一週間ほどそこに停泊したが、前田君をそこで下船させて病院に入院させた。
なお、前田君から切り取った手をどうすればよいかと軍医に聞いたところ「海に投下したらよい」と言ったので、それを貰った。
そして、前田君が出血多量のため万一のことがあったら、これを焼いて少しでも故郷の家の方へ送ってやりたいと思っていたが、ともあれ、入院させたのでその必要がなくなた。
そこで、前田君の班長や戦友とともに後部甲板に行き、それに錘をつけて海に投下することにした。
「お国のために捧げた前田君の腕に対し敬礼」と一同挙手して、波静かな海に彼の腕を投下した。
門司港を出港してから、まだ一週間はどであるが、船団全体としては相当大きな犠牲者を出した。 さて、その数はどれほどだろうか。
そして、船団はばらばらになった。 三平の乗っていた延慶丸はたまたま古仁屋湾に入港したが、船団のうちには沖縄や台湾の基隆に直行した船もあったという。
ところで、三平の乗船している延慶丸は、一応昭南(シンガポール)の方へ行くということは、それとなく知っていた。 ところが、その後戦局も変わってきて、その途中にあるフィリピンで最後的死闘が続いていた。
三平が召集を受けて入隊してから、まだ半年も経っていない。 応召して家を発つときに女房に言った。
「戦争もいよいよ最後が近づいてきたようだ、場合によっては再び顔を合わせることはないかも知れない」と。
そして、幕末の尊王攘夷の志士で福井県人の儒学者、浜田雲浜のことを思い出した。 雲浜は家を出るときに詠んだ詩の中の「今朝の生別は死別を兼ねる」である。
前田君の腕を海中に投じた三平は、今更のように厳しい戦局に思いを致しながら、波静かな古仁屋湾を見下ろしていた。 その海には美しい海蛇が楽しそうに泳いでいた。 体長は一米ほどであるが、全身が真紅で、初めて見る南国の海蛇であった。
その後、三平の乗った船は台湾にゆき、基隆港に停泊していたときであるが、悪性下痢を病み、同地の陸軍病院で診断してもらったところ、腸チフスの疑いがあるとのことで入院させられ、船団の南下に取り残された。
そして、どうにか熱もさがったが、部隊の行く先も判らないので困っていたところ、病院船が入港し、否応なしにそれに乗せられて内地の方へ送られて大阪に着き、そこにある日赤病院に入院させられた。
そして、その二日後に今度は金沢の陸軍病院の方に送られた。 ところが三平が金沢について二日目であるが、大阪市はアメリカ軍の爆撃で全市が焼野原になった。
また、三平が金沢にきて間もなく、隣県の福井市や富山市がアメリカ空軍の爆撃を受けたので、石川県でも金沢の陸軍病院を山中町の方に移転してもということになった。
しかし、三平は「どこにも行きたくない」と頑張っていたところ、八月十五日に大東亜戦争も終戦になって、故郷の輪島へ戻ってきたのである。