木曽殿 前略 古い昔のことは、だんだん忘れられてゆくので、今度「わが家のこと」というものを書いた。
わが家は、同じ山本部落内にあった通称「左近殿(サコドン)」という旧家の次男坊が分家してできたものだと伝えられている。
その左近殿の家系をさかのぼると、源平合戦で大活躍をした畠山重忠に関係してくる。 そして、その畠山家をさかのぼると
やんごとない大物につながるのだ。
そんな昔のことは、いまさらとやく言うこともないのだが、一応知っておいてもよいので、プリントして一部送った。
本家の左近殿は明治になって廣野という家名になった。 そして、昭和10年頃東京の方へ転住したが、その子供か孫がそちらにいるようだ。
その廣野家の古い墓の在る土地は転住に際し、私の家へ売却し、現在私の家の所有地になっている。
ともあれ、一度読んでみてくれ。 平蔵 昭和61年10月16日
わが平蔵谷家のこと
はじめに
ここにわが平蔵谷家があるが、この平蔵谷家はいつ頃、誰のときに始まり、その後どんな家系になって今日に至ったのか。 われわれがいまここにいるということは、親がいたことであり、その親にも親がいたことである。 古いことはだんだん忘れられてゆくので、現在判っているわが家の家系のことについて、少し記しておくことにする。
わが家の一番古い先祖
わが家の一番古い先祖は誰であったか。
私が父秀造の存命中に聞いたところによると、それは「平蔵」という者であったという。 それは、親から子へと、次々と申し伝えられているものというが、その平蔵は同じ山本部落にあった通称「左近殿(サコドン)」の次男坊であった。 それが、たまたま好きな女ができたのでそれと結婚することとし、現在地に家を建ててもらって分家したのだという。 では、それはいつ頃のことだろうか。 父はそれは親から聞いていないが相当昔のことであり、徳川時代の中頃ではなかろうかと言っていた。 現在わが家の在るところは、通称「平蔵谷」といわれ、また、その山手の方は「平蔵の谷内(ヘイゾウノヤチ)」という。 それは、この地にきて始めて家を建てた平蔵の名からきたものであり、また、明治になってわが家の名を今の名にしたが、これも家の在るところの「平蔵谷」から、 そのようにしたのだという。 現在わが家の在るところは、通称「平蔵谷」といわれ、また、その山手の方は「平蔵の谷内(ヘイゾウノヤチ)」という。 それは、この地にきて始めて家を建てた平蔵の名からきたものであり、また、明治になってわが家の名を今の名にしたが、 これも家の在るところの「平蔵谷」から、そのようにしたのだという。 平蔵谷(平蔵の谷内)の茅葺のわが家
その後の家系について
前記したように、先祖の平蔵が左近殿(サコドン)から分家したのは、相当古いようだが、昔は戸籍というものがなかったので現在判っているものとの間に、 どんな者がどれだけいたのか不明である。 現在、はっきり判っているのは理兵衛からであるが、その理兵衛の前に「彌兵衛」という者がいたそうである。 なお、理兵衛という者は二代いた。 ここで、つけ加えておくが、わが家系に「平蔵」という者も二名いることになった。 先祖の平蔵と、この記事を書いている秀造の子供の私である。 私が、父の存命中に「私の名前をなぜ古くさい平蔵としたのか」と言ったところ、祖父の嘉吉が「先祖の平蔵にあやかって、そのようにしたらよい」というので、 止むなくそうしたのだと苦笑していた。 では、現在判っているわが家の家系を記することにする。 平蔵谷家の家系
(注:当家性の者は【 】、生存者は姓のみで表示で、名は「□」とし、姓や名が不明時は「?」、結婚後当家姓消滅時は「✕」で系図終了を示しています。)
(初代) (この間不明) (初代) (二代目) (養子)
【平蔵】--------【彌兵衛】--【理兵衛】--┐ ┌-【理兵衛】--┐ ┌-垣内嘉吉-┐ | | ├‥‥┘ | ├--┤ 浦次郎平みつ-┘ | | | ├--┐ 市郎平志ま--┘ | 坂本孫兵衛--┐ | | | ├--┐ (養子) | | └-【とも】---┘ └-坂本よみ-┘ | | ┌---------------------------------------------┘ | | ┌-【□□□】--┐ | ┌-【花】----┐ | ├--+-【??】 | | ├--┤ ????---┘ | | 横山清----┘ | | | └-【□□□】--┐ | | ├-✕ ├-【かの】---┐ | ????---┘ ┌-【□□】---┐ | ├--┤ | ├-- | 海守仁三郎--┘ | ┌-【□□】---┐ | ????---┘ | | | ├--+-【□□】---┐ ┌-【??】 | | | 馬場□□□--┘ | ├--┤ | └-【久雄】---┐ | | 西野□□---┘ └-【??】 | ├--+-【□□□】--┐ └-【□□】---┐ | 榎木久子---┘ | ├-✕ ├-✕ | | 大野□□---┘ ????---┘ | | ┌-【□□】---┐ | | | ├-✕ | └-【□□】---┐ | ????---┘ | ├--+-【□□】---┐ | 荒川□□---┘ | ├-✕ | | ????---┘ | └-【□□】---┐ | ├-✕ | ????---┘ | (二代目) ├-【秀造】---┐ ┌-【平蔵】---┐ ┌-【巌夫】---┐ ┌-【健一】---┐ ┌-【友亮】 | ├--┤ ├--┤ ├--┤ ├--┤ | 橋爪伊勢---┘ | 般若のり子--┘ | 中村□□---┘ | 橋浦□□---┘ | | | | | | ├-【欽二郎】 ├-【義雄】---┐ | └-【□□】---┐ └-【□□】 | | ├-✕| ├-✕ ├-【りす】---┐ | 山田はな---┘ ├-【未代子】 三村□□---┘ | ├-✕| | | 川岸茂信---┘ | 八木彌一郎--┐ | ┌-【□□】 | | ├-✕| ┌-【□□】---┐ | └-【喜太郎】 ├-【登喜恵】--┤ ├-【□】----┐ | ├--┤ | ├-✕| ├--┤ 佐藤□□---┘ | | 八木安次郎--┘ | 稲垣□□---┘ | └-【□□】 | | └-【□□】 | | ├-【秀雄】 └-【哲夫】 | ├-【喜代美】--┐ ┌-【□□】 | ├-✕ | | 西谷武次郎--┘ ┌-【□□】---┐ | | | ├--+-【□□】 | | 島田□□---┘ | | 田辺保子---┐ | | | ├--+-【□□】---┐ └-【□□】 ├-【安男】---┤ | ├-✕ | ├ | 古野□□---┘ | 樋口知子---┘ | ┌-【□□】 | └-【□□】---┐ | | ├--┤ | ??□□---┘ | | └-【□】 ├-【静枝】 | | ┌-【□□□】--┐ | | ├-✕ | | ??□□---┘ | | | ├-【□□】---┐ | | ├- | | ??□□---┘ | | | ┌-【□】----┐ ├-【□□】 ├-【敏雄】---┐ | ├--┤ | ├--┤ 谷□□□---┘ └-【□□□】 | 高森弘子---┘ | | └-【□】----┐ ┌-【□□】 | ├--┤ ├-【哲雄】 中谷□□---┘ └-【□□□】 | | ┌-【□□】 └-【達雄】---┐ | ├--┤ 柳川三枝---┘ | └-【□□□】
わが平蔵谷家の本家であった廣野家
わが家の本家であった通称「左近殿(サコドン)」は、その家のあるところが部落内の小字廣野前であるところから、明治になって家名を「廣野」とした。 では、廣野家はどんな家柄であったのか。 大正十二年につくられた「鳳至郡誌(ふげしぐんし)」にも記されているが、昔、源平合戦のときに源氏方の武将として大活躍をしたものに畠山重忠という者がいる。 その重忠の弟が重清であるが、その三代目の「左近太郎」という者が二の宮というところからこの地にやってきて城を構えた。 これが通称「左近殿」となり、廣野家になったのだという。 `我家の付近の地図 - 旧鳳至郡大屋村字山本、平蔵谷、茶志尻、広野前 「鳳至郡誌」にも「今、同家の門前の右手の方を手崎というが大手門のありしところで、左方を天神田というが天神門のあったところ。 邸前の田地で野仕田(のうじだ)というところは野仕合をなせしところで、その他茶志場、□場田、塚崎、互馬、馬寄、薙刀等の地も隣接せり。 廣野家の家紋は角入の揚羽蝶にして、所蔵の千両箱にはこの家紋と畠山重忠の文字あり。 継嗣たるべき者の元服をなすときは、刀剣及びこの千両箱を床の間に飾りてなせりという」と記されている。 では、廣野家の先祖である重清の兄である畠山重忠とはどんな武将であったのか。 重忠の家系をさかのぼると桓武天皇になり、いわゆる桓武平氏である。 だから、源平合戦が始まって伊豆に流されいた源頼朝が挙兵したときは平家方であって源氏方の衣笠城攻めにも参加した。 しかし、その後源氏方の攻撃に会って敗れたことと、関東方面は源氏方が強いという地理的関係もあって、源氏方になったのである。 重忠はその後源義経にしたがって都の京都に攻めのぼり、宇治川の渡河作戦大活躍をしたが「平家物語」、最も有名なのは「ひよどり越えの坂落し」戦のことである。 「平家に非ずんば人に非ず」と豪語して栄耀栄華を誇った平家も、その後源氏方に攻められて止むなく都落ちをし、一時播磨国の一ノ谷城に移り再起を期することになった。 そこは、後方は大へん険しい崖になっており、前方は海。 まさか、その後方の崖の上から攻めてくるとは到底考えられず、もっぱら海添い道路の防衛に万全を期していた。 ところが、源氏方の義経勢はこっそりと道もない山また山を通ってひよどり越えの難所を経て、一ノ谷城の後方の崖の上から坂落とし戦法で奇襲して平家方を撃破したのである。 そのとき義経方の武将であった畠山重忠は、平素苦楽を共にしてきた愛馬の「三ヶ月」に万一のことがあったら可哀想だと馬を背負って険しい崖を駆けおり、 関八州第一の大力持といわれたことを実証し、敵味方をアッと驚かせたのである -「源平盛衰記」。 こうした重忠の弟である重清も、もちろん兄を援けて源平戦で大活躍したことは勿論である。 では、「畠山重忠公史蹟保存会」作成による畠山家の系譜を、次に記する。
その後の廣野家について
前記したように、廣野家は左近太郎に始まるが、その後どんな家系になって現在に至ったのか。 明治以後のことは勿論はっきりしているが、幕末頃に「左小」という者がいたとされている。 なお、その左小までの十数代のうちに「ナヨ」と大力持の婿取娘がいて、これに畠山重忠の第十三代になる儀左エ門という者が入夫したことは 「鳳至郡誌」に記されているが、それ以外のことは私に判っていない。 それは、昭和十年頃に当時の戸主であった義一氏が東京の方へ転住したためである。 いま判っている廣野家の家系は、次のとおり。
義一氏がこちらにいたときのことを知っているが、その家は茅葺きながら、古格ゆかしい立派なものであった。 明治の末頃から大正にかけて酒造業もやっていたそうで土蔵の外に酒蔵などもあった。 前方の広い庭には沢山の名木が植えられていたし、家の後方には細長く泉水がつくられており、その上方の小高いところには杉の巨木が数本天高くそびえていた。 廣野家は義一氏が転住後、屋敷跡は畑地になり、現在建物は何もないが、義一氏の後継者が数年おきに旧盆のとき、わざわざ先祖のお墓詣りにこちらに訪れている。 今は荒れ地の左近殿(廣野家)屋敷跡 (付記) わが家の先祖である「平蔵」が分家したのは、前頁のナヨの前か後のころではないかと思っている。 |