木曽左衛門のつれづれ草

能登の嫁取り


結婚式
「かけまくもかしこき伊邪那岐、伊邪那美の神の御前に、かしこみかしこみて申さく、今日の佳き日に・・・」と神主が祝詞を唱え、或いは、神父の「病めるときも健やかなるときも愛を持って生涯支えあう事を誓いますか?・・・」の愛の誓いを確認し合ってキスする、結婚式を挙げるカップルも多いこの頃である。

さて、当方が生まれ育った奥能登では、どの様な結婚式(「嫁取り」と云ったが)をしたのであろうか。
当地で「嫁取り」をした叔父や兄の場合を、少しばかり記憶に残っているので、思い出して見よう。
ちなみに、当方は次男坊で、早くから能登を離れ都会暮らしとなり、嫁もこちらで貰ったので、田舎の風習などとは関係の無いものだったが。

<縄張り>

縁談が整ったしるしにとり交わされるのが、結納であり、婚約の意味をも示す。
結納は両家の結合を確認するための儀礼的な贈答慣行であり、その形式も地方ゝ時代ゝで違いがあると思われますが、結婚式 の日にちも決まり、さていよいよ当日、嫁取りの式には親戚・知人へ案内しておいて、 ムコの家から花嫁を迎えに行く。
嫁取りの際には、嫁が婚家に向かう途中、 人びとが縄を張って妨害し、祝儀をねだるといった習俗がこちらではあった。 嫁側は、縄を張っている人に酒や祝儀を渡して、 通してもらわなければならない。この風習は 「ナワバリ」などと言い表わされている。
当方の記憶では、未だ小学校にはいる前の時代だが、叔父が「嫁取り式」を行なった折、花嫁道中に通せんぼ縄張りをし5円が入った祝儀袋を貰った思い出がある。 子供、若衆、大人など人によって金額が違っていたようである。人によっては酒の場合もあった。我が兄の「嫁取り式」の時は当家付近では縄張りは見なかったが、 或いは、兄嫁の出身地(曽々木、町野、鈴屋)はこの風習の盛んな所なので、そちらの家を出るときにあったかも知れません。

ナワバリ前後に、「道具運び」が夜にこっそりと行われる。花嫁側の家が、タンス 、着物などを荷車やトラソクで運んで 、婚家に並べて、来た人に見せびらかすのである。 しかし、叔父の場合は新宅を建てお嫁を迎えたので、時代もあり、それに似たようなものがあったかも知れないが、兄嫁の場合は来た人に見せびらかす等のようなことは無かった。



<水合わせと盃割り>

兄の嫁取りの時は、当方は大学に入りたての頃で、急遽呼ばれて実家へ戻った。式当日に親父からお嫁さん一行が玄関の敷居をまたいで入って来たら、 一行が持ってくる盃に当家の水を注いで飲ましてくれとの役目を仰せつかった。お酒ならいざ知らず、お水とはこれ如何にと思ったが快く受け承った。
盃
当方水合わせの儀なるものの予備知識も無かったので、差し出されたお嫁さんの盃に水を注ごうとしたら、御一行様も持ってきた水も一緒に注いできた。
それをお嫁さん軽く一口飲まれた。これで儀式が終ったと思い、盃を持ったまま家に入られてもと思い盃を預かろうと手を出したところ、
お嫁さんが盃を土間のコンクリートの床に落として割れてしまった。
慌てて御一行様を見るも皆笑みを浮かべて笑い顔だ。これが「水合わせ」と「盃割り」の入家儀礼しきたりだと後に知った。
能登の風習もよう知らんダラはダチャカンのぉ。
嫁は婚家に入り、神棚や仏壇にお参りして家族の一員になることを婚家の先祖に報告をする。
能登ではどこの家でも仏壇は大な立派なものが座敷にあり、式は仏前の座敷で行なわれる。又、神棚は別の部屋(当家では大オエの間)にあった。

<ハバキヌキ>

次は、ハバキヌキが行われる。兄嫁の生家の町野町あたりでは昔から受け継がれているそうだ。ババキヌキとは 「嫁入りや婿入りの時 、脚半を脱ぎ世話になります 」という意味の儀式であり、 昔は嫁ぐ時はにガバやシュロの葉で作った 、「ハバキ」という脚半をスネに巻き、夜が白々と明けるころ家を出、婚家に着いてから 脱いたそうだが、現在実際「ハバキ」を着ける例などは無いが、 着けていることにして儀式だけが伝承されている。
この後、ハバキヌキの御膳が出される。干イワシ、黒豆、紅白まんじゅうなどが並ぶ 。新郎新婦は、「まめに働くように」と皿いっぱいに広がった黒豆を皿の真ん中に集め 、 背中合わせに出されたイワシを腹合わせにして変わらぬ愛を誓う。
嫁婿両方の親族が左右に居並び 、婿方親族の代表 が「それで は、ただいまからお近付きの冷酒を差し上げます」と挨拶し、盃は婿方から始まり、仲人、両嫁婿・親族に一巡させる。 これで婚姻成立の承認が行われ、両家親族の関係も相互に認知されるのである。ハバキヌキが終わったら、再び嫁が神棚 ・仏壇に挨拶した。
吾輩は当時未だ若く、予備知識も無かったので兄の場合の式次第などはどんな風だったか、生憎く思い出せない。

<披露宴>

古い伝統的スタイルでは、披露するのは婚家に来たお嫁さんを婚家の近親者達に対して行うのであって、婿はすでに知っている間柄なので披露する必要はなかった。現在の披露宴とは少し違っていたのである。
披露宴は普通当地では2日に分けて行われのが一般的であった。
1日目に出席するのは嫁及び両家の近親者で、婿は出席しないのが普通であった。 親子盃をするところから披露宴が始まる。生家の親は式に来てはいけないので、婚家の両親とお嫁さんとの間で盃を酌み交わした。今日のように祝言や夫婦盃がないので、 婿は近所や友人の家に遊びに行ったり、台所で祝宴の酒の燗やいろりの薪番をしていたといわれている。
2日目には村人や友人、遠い親戚などが呼ばれる。
しかし、このようなスタイルで行われることは今はほとんど無い。
当地田舎で披露宴などを行う為には部屋の仕切の板戸や障子戸を全て外し、当家の場合では座敷・中の間・広間・大おえの間を使って大宴会場を作る。
蔵にはいろんな行事用に何十客の輪島塗の御膳やお椀、座布団などが用意してあり大宴会には困らない。料理などはこのような場合の為に隣組が作られており、近所の者が助け合って準備に当たってくれた。その代わり、2日目はこの人達の慰労を兼ねて行われた。

兄の場合は、隣組のお世話になって大人数の料理・御膳を作ってもらうのも大変なので、村で初めてのケースだったが、式は自宅で・披露宴は町の大きな料亭を貸し切って行うことにした。
当然、会場は畳敷きの大広間で、御膳が並ぶ宴会風で、現在ホテルなどで行われているような来賓祝辞や友人主体のお祝いの言葉などの堅ぐるしいものではなく、お酒の入った祝宴であった。
祝宴佳境に入れば、祝い唄などがのどに自信がある御仁から出るのが世の常。
しかし、能登では少し違うのは、のどに自信がある人が一人で歌うのではなく、出だしや歌の段落後の節を一人で歌うだけで、
後は全員で唱和するのである。能登で代表的な祝い唄、「輪島まだら」が必ず出る。
”めでためでたの若松様よ枝も栄えて葉も茂る”と唄うのであるが、ゆっくりとしたテンポで手拍子、しかもテンポが遅いので手をさすりながら間合いを取って 手のひらを打ち、歌は母音を延々と伸ばし独特の節回しを付けて唄う。たった一行のこの句を10分近くかけて唄い終える。祝い唄ながら労働の辛さがにじみ出たのだろうか哀愁さえ覚える。



【注】「まだら」に就いては、古代、中世から江戸時代と日本の歴史・輪島の歴史に深く関わる史実があり、我がつれづれ草にて「輪島まだら」として取り上げてみようと思っております。


© Heizodani 2010, All rights reserved.   Last update: