木曽左衛門のつれづれ草

能登はやさしや人殺し


祭り
奥能登育ちの小生、地元を離れる前、よく「能登はやさしや人殺し」の言葉を聞いた記憶がある。"人殺し" に "やさしや" の形容詞が付くのも奇怪な気がするが、なぜこんな言葉がうまれたのだろうか。

能登、加賀、越中の三国人気質を表した言葉に「越中泥棒、加賀盗人、能登はやさしや土までも」と云うのは良く聞くが、如何にして "人殺し" に転じたのか考察してみよう。

使った後の後払いのシステムで富山の薬を、全国津々浦々家に置いて行った富山商人は、"鼻糞丸めた万金丹" ではないが、口先上手で、商売上手でやることが大胆、その大胆さは「泥棒」級であった。
一方、加賀は天下の大大名の城下町、お役人のお目付けも厳しく、何事にも富山商人のような大胆さは見られない。行動は「泥棒」級ではなく、こそこそした「盗人」ぐらいであった。
その点、人馴れしていない能登人は純朴・無垢で、口下手のせいもあって、三国人の間で争いごとがあっても口では叶はないから、揉め事は起こさず、人はもとより土までも「やさしい」と言われていた。

又、「越中強盗、 加賀乞食、越前詐欺師」と云う言葉もあったそうだが、これは生活に窮した時に最後に生き抜く知恵の県民性を表したものらしい。頷けないこともないような気がします。

<能登のとと楽 >

「能登のとと楽 加賀のかか楽」という言い回しもある。能登の女性がよく働くことから旦那衆は楽しており、加賀のおかみさん達は天下の城下町で、いい着物を着て習い事の一つや二つ、 おまけに美味しい食べものに事欠かない「かか楽」の国だというのだ。
ここで、「能登のとと」の名誉のためにも言っておくが、いつものらりくらりの暮らしでもなかったのである。
蔵人
冬の間仕事ができなくなる農山漁村の男たちが、秋の収穫が終わると故郷を出て翌年の春まで日本各地の蔵元に住み込んで蔵人として酒造りに励む。
江戸時代中ごろに始まったとされるこの酒造りの形は、現在も続いています。いわゆる能登杜氏である。酒造りの長「杜氏」は、蔵や帳簿、仕込みなど酒造りのすべてを管理する最高責任者です。 高度な技術が必要な日本酒造りには、杜氏の技能、特に経験と勘が酒の出来栄えに大きな影響を与えたのです。
江戸時代以降、酒屋働きの酒男は「能登衆」と呼ばれ、他の出稼ぎの者とはっきり区別されていました。

大奥方
能登杜氏は一族郎党技術集団を引き連れ、主に近畿地方の酒造り名門地で銘酒造りに寄与したのであるが、能登の人は純朴でおとなしく親方の命令ひとつで従順に従う働き者で、蔵元からも大歓迎されていました。
蔵元には食事の世話などをする女中さんや、使用人も多数おりましたが、無口で純朴な若き「能登おのこ」に惚れ込んで好意を寄せるおなごも多かったとか。
なかには、女中どころか蔵元の大奥方がぞっこん寵愛し、密かに会う瀬を楽しんだ女将もいたとか。

ここで駄作を一首、"能登蔵人 仕込みの樽に 棹入れて、差し廻す技 そっと女将にも"

無口で純朴、従順に働くのは良いのですが、一緒に働く使用人のなかにはそれを良いことにして、若い年下の奴が顎で指図し何でも押し付ける者もいたそうだ。 黙って従うも時に堪忍袋の緒が切れる事がある。なにせ、口先では反撃に叶わぬ「能登おのこ」の悲しさ、でも故郷では山から切った大木を担ぎ降ろす歩荷(ぼっか)で鍛えた頑丈な身体だ、いざ喧嘩となれば 相手を一撃で殴り倒してしまう事があったそうな。

<人殺しとは>

当方の独断ではあるが、「人殺し」とも呼ばれる所以はつまるところ、杜氏率いる一団の若造のように、口下手でいびられっぱなしの能登小僧も、ときには爆発することがある様を「能登はやさしい、しかし時には人殺しも」と表現したものではないかと思っている。。


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