木曽左衛門のつれづれ草

輪島まだら


まだら
戦後間もないころだったと思うが、新しものがり屋の我が親父が電蓄(電気蓄音機)を買った。何のことはない、今流に言えばレコードプレーヤーのことである。
それ以前でもレコードプレーヤーはあったが、ゼンマイ式で手でゼンマイを回しその力で音盤を回転させ、音は竹のレコード針から直接振動を伝えてスピーカーを鳴らす、電気要らずの代物しか無かった時代である。
当方、未だ幼年期だったが、親父の大半の手持ちレコードは当時の流行歌だったと記憶しているが、その中に変わった2枚の音盤が在ったのを覚えている。「輪島まだら」と「三夜音頭」である。
明治生まれの親父には、当時の流行歌はあまり上手ではなく、どちらかと言えば都々逸派だったが、この歌だけは能登輪島に暮らす当時の人には、歌えなくてはならない必須の歌だったのであろう。

誰もが歌えなくてはいけない「輪島まだら」とは、一体どんな歌だったのだろうか?

<「まだら」とは>

九州佐賀県の唐津と壱岐にはさまれた壱岐水道に,馬渡島(まだらじま)があるが「まだら」とは、この小さな島が発生の地とされる古民謡である。
「まだら」はもともと船乗り唄であり、海唄であったが、現在では起舟・造船式のみならず、結婚式・「建ちまい(建前)J の際にも唄われ、祝儀唄としての性格がかなり強くなっています。
「まだら」は海上のルートによって九州から日本海沿岸を北上したと推測され、やや曲節(節まわし)が変化しているものの、明らかに「まだら」と思われる唄が、主に日本海側の各地に散在しており、 これらの唄を総称して、系統的に「まだら」と呼んでいます。
特に、北陸三県には各地で「まだら」が今もよく歌われており、代表的なものには、石川県では輪島まだら、輪島崎まだら、七尾まだら、中居まだら、内日角まだら、 富山県では岩瀬まだら、魚津まだら、新湊めでた(放生津まだら)、福光めでた、麦や節、布施谷節、又、福井県三国港では「いさぎ」などがあります。
「まだら」の代表的な元唄は「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂る」であり、他の民謡でもよく使われる句でもありますが、端的な違いは母音のところを延々と節を付けて伸ばし、 たったこの一句を十分近くかけて歌い終えるのである。もとは船乗りの労働歌であり、帆掛け船で大海をゆっくりと航海しながら歌ったためかテンポも非常に遅く、言葉より節まわしに重きを置いています。
祝唄ではあるが、辛い労働ながら今の幸せに感謝の讃美歌ともいうべきか、しかしどこか哀愁さえおぼえる。最初の一節は「音頭Jの者一人で,あとの「付き」は残りの者全員で唄う。
では、なぜ九州の馬渡島の一古民謡が日本海側の各地に広がったのであろうか。それは江戸時代を中心に栄えた「北前船」が関係していたと思える。

<北前船>

北前船
北前船は江戸中期から明治30年代まで、蝦夷(北海道)と大坂の間を、日本海沿岸の諸港に寄港しながら、下関、瀬戸内海を通って往来した廻船である。 上方や瀬戸内では「北前」とは「日本海側」を意味し、北の日本海から来る船を「北前の船」と呼んだことに由来する。
各地の港で、米とか肥料とか、昆布とか、生活用品とか、いろんなものを運んではおろし、積荷しては運んで、各地で商いをしていた船が、この「北前船」なのである。

船の大きさは五百石から一千五百石のお米を載せるほどで、千石船だと約150トンの荷物を乗せることができるわけですから、大型の10トントラックが15台で運ぶほどの荷物を、一気に海を渡って運べたわけです。 乗組員はだいたい10人から15人ほどだったようです。
北前船はお米はもちろん、北海道で採れる昆布とか数の子とかニシンとかの海産物、塩や砂糖、たばこやお酒といった嗜好品、味噌・醤油・油、衣服や紙や縄とか筵といったわら製品、ろうそくのような生活用品など、 その土地の特産物を買って他の土地へ運んで売り、行きも帰りも商いをしておりました。大消費地「大阪」には勿論大量の物資が運ばれていましたが、それだけではありませんでした。
北前船ルート
北前船が海流と風の力で海を進んで、各地を廻りながら運んだのは、米や海産物や生活用品のような品物だけではなかったのです。 いろんな土地の言葉や、いろんな土地の習慣、いろんな土地の文化、いろんな食文化を、各地を廻って伝えていたのもが北前船であったのです。
各湊には交易に携わる船主が現れ、大小200艘を持つ船主・豪商も現れた。北前船は一艘一航海で千両の利益も揚げると云われる宝船だったので、当地輪島からも大阪の蔵屋敷を取り仕切る大豪商も出たのであった。
古民謡「まだら」も船乗り人夫達が交易のため、或いは荒波を避けるために一時停泊する湊で聞いた唄を自分なりに覚え、自分の出身地に持ち帰り、その地に広まっていったのであろう。

<輪島湊>

北前船の主要湊であった現在の輪島市は、当時は輪島村、輪島崎村、鵜入村、光浦村、時国村など北前船に関わった村は10ヶ村ほどありましたが、特に輪島村と輪島崎村が大きく関わっておりました。
もともと、北前船以前からこの地は奈良・平安の時代から能登国大屋荘があった所で、輪島港は大屋湊と呼ばれ海運業も盛んでした。奥能登にある福浦港(福良)も当時は遣唐使・渤海使の船が一番出入りをした日本の代表港だったのです。
遣唐使・渤海使船が日本海を渡り目指した倭国であるが初めて目にした島が「倭の島」(後に輪島と呼ばれた)だったのである。
遊女 余談になりますが、この福浦湊も北前船がよく利用した天然の良港で、特に日本海が荒れた折や、無風で帆船航行が無理の時はこの小さな湊に寄港しました。
「板子一枚下は地獄」という危険な航海に挑む若衆も陸に上がり、船宿での一服、酒盛りで故郷の「まだら」の一つぐらいは出ておかしくはない。褐色に日焼けした筋肉質の力持ち、おまけに千両稼ぎのイケメンとくれば遊女も放っておくはずがない。 かつては港に遊女はつきものだったが、福浦では遊女のことを「ゲンショ」と言い、タングワ(口紅を付けた女のこと)多数いたそうな。 ゲンショ達は嵐が止まないよう願懸けして、長逗留を願い別れを惜しんだそうだ。
当地福浦では、野口雨情がこれを読んだ歌があり、又、現在でも当時を忍ぶ遊女にまつわるお祭り(タングワ祭り)があるそうだ。吾輩もここで一首、
  
   いちゃけな 能登おなごに 癒されて、荒波行くや よさ男船

輪島村と輪島崎村は隣り合った村でしたが、江戸時代の記録にのこる外海船擢役と聞役の上納銀高(税金)によると、外海船擢役の大きい輪島村は所有している船数が多く,海運・漁業の根拠地であり、 一方,間役の大きい輪島崎村は出入りする船数が多かった,すなわち海運の寄港地だったが船主はいなかったことが分かる。「まだら」のような外からの文化の流入という点では,輪島崎村は,この地域で最大の外来文化の受入 れ地であったということです。船宿の大半も輪島崎村にあった。

<輪島まだら>

日本海各地に広がった「まだら」だが、現在にも受け継がれ、最も歌われているのは輪島まだらです。
伝承の地、旧輪島崎村が最も盛んに現在も歌われております。 輪島崎の「まだら」は、正確に は「輪島崎まだら・あのり Jと呼ばれている。「輪島 崎まだら・あのり」は、「祝い目出度い おもことか のた末は鶴亀五葉の松」 という「輪島まだら」 のあとに、さらに「あのり(安乗)J を付ける。 その点で他の「まだら」と異なる。「あのり」は「まだら」と曲節を同じくするが、しかし、唄われる場によって文句が違う。「あのり」 の歌調には 5種類あり、例えば結婚式の場合には、「輪島まだら Jに続いて「ここの座敷は 目出度い 座敷、鶴と亀とが舞い遊ぶ」 という「あのり」が付き、起舟の際には「新造目出度や八帆巻き上げておもた港へ そよそよと」という「あのり」が付 く。唄われる場に応じた「あのり」を付けるのが、 「輪島崎まだら・あのり」の特色である。
ではここで、代表的な輪島まだら「おちつきまだら」を紹介しましょう。
通常は畳敷きの大広間で祝いの酒宴が一服したところで、輪島まだら「おちつきまだら」が始まります。「音頭Jの一人が声をかけ、全員あぐらから正座に変えて、手拍子取りながら合唱がはじまります。
普通の宴会では、踊り上手の御婦人などがいない限り踊りまではしませんが、ここでは舞台での踊り付きのものを紹介します。
(注:Youtube上から拝借致しました)

 

次に、輪島まだら「しめまだら」の歌詞と音符(?)を紹介致しておきます。
 


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